神社のご由緒
主祭神
誉田別命(応神天皇・八幡さま)
息長帯姫命(神功皇后・応神天皇の母君)
比売命
ご由緒
奈加美神社の創建は、平安時代にかかるものとされていますが、それを詳らかにするものは残されておりません。
旧社は大宮神社と称されておりました。平松家、藤田家の古文書によれば、宝治2年(1248)にはすでに大宮神社は分社をなし、佐野・大武家村に大引欠神社を有していたとあり、その後も分霊分社が続き、室町期文明2年(1470)には、近郷七ヶ村に及ぶ七座七社の惣鎮守社として、村人の崇敬を一手に集め、宏壮深遠な神域をもつ名実とも大宮であったとされています。「今に大宮様七膳づつすはるや」と、七座の神饌を献ずる習わしは分社の由縁によるもので、明治の神社合祀まで続けられました。
湊の教蓮寺古文書に依れば、大宮神社は紀州根来寺の触下にあり社領三千石を有し、大宮大明神、または大宮庵とも称され、神仏習合の時代には真言宗の社僧が祭祀にあたったことが記されています。
天正5年(1577)の織田信長の根来攻めの際、当大宮神社も悉く焼き払われ、この戦災後、慶長15年(1610)8月、ときの代官・新川宮内大輔、沙門松室坊ョ真法師等が焼廃した神社の再建にあたり、現位置に社殿が造営されました。
明治41年(1908)から翌明治42年(1909)にかけて、中庄・上瓦屋・湊の3村の字々の神社が合祀され和協一致の精神による神社の護持発展を願い、3村の奈(中庄)加(上瓦屋)美(湊)の頭仮名文字を綴合せて、万葉仮名の響きも美しく「奈加美神社」と称されることとなりました。
配祭神
ご由緒にある三村の字々の神様が配祭神として祀られています
天児屋根命
菅原道真公
道祖神
豊受保神
水久萬利神
美刀志神
八衢彦神
八衢姫神
久那斗神
蛭子命
市杵島姫命
素盞鳴命
文化財
当社の本殿は、慶長15年(1610)年に時の代官・新川宮内大輔、沙門松室坊ョ真法師を始め氏子衆が中心となって再建されたもので、建築様式は三間社流造の桧皮葺、正面には軒唐破風と千鳥破風を設け、千木・勝男木を頂き、正側面三方に縁を廻らし、木鼻や拳鼻などの多様な彫刻が特徴的で、極彩色の華麗な装飾が施されています。
<修復前の本殿全景>